バタン

   扉が閉まり、相沢くんの姿が消える。
   なんだかものすごく落ち込んでいるようだが、詮索はしないほうがいいだろう。
  「しかし…ずいぶんと懐かしい事を思い出させてくれる」
   思わずため息が出る。
   いまだに僕の中でトラウマとして残っている、あの頃。
   こうして今はそれなりに男らしい風体になったものの、あの頃は本気で自分の未来を心配したものだ。
  「…懐かしいな」
   今では笑い話に出来てしまうあたり、すでに思い出ってことだろうか。
   思えば、僕も必死だったものだ。
   僕がまだ幼かったあの頃。
   女の子のような顔と声だった頃。
   それは、過去の話。
   年月は短くても、成長期の僕たちにとっては、遠い話…








  「お父さん、今度の学芸会に来てくれるの!?」
   普段は忙しくて、めったに学校行事に参加できないお父さんが、学芸会を見に行くというのだから僕はびっくりした。
  「ああ、ちょうどその日が開いてな。せっかくだから行くことにしたんだ」
   お父さんはとてもすごい仕事をしている。そのせいで、なかなか一緒に遊べないけど、僕はお父さんを立派な人だと思っている。
   お父さんが学芸会を見に来る。僕の演技している姿を見てくれる。
   それだけで、心が躍った。ものすごく嬉しい気持ちになった。
  「絶対だよ! 絶対、来てね!」
  「ああ、約束だ」
   絶対、失敗できない。
   僕のクラスは白雪姫をやる。僕は小人の役で、全編通して出るわけじゃないけど…
   だけど、絶対に失敗はしたくない。
   お父さんに最高の劇を見せるんだ!
   だから、そのためなら僕はどんな事でもやるんだ…みんなに嫌われても、お父さんに褒めてもらえれば…それでいいんだ。
   学芸会まであと一ヶ月。
   本格的な練習は明日から始まる。
   僕が、やるんだ。僕が、成功させるんだ!!
   そのためなら、僕はどんな事でもやるんだ!




  「そこ! まだ動きが硬いよ! 本番まであと2日なんだよ?」
   お父さんが学芸会に行けることが分かってから、三週間。
   本番はあと2日と迫っていた。
   練習を始めてからに比べるとすごく演技が自然になってきたと思う。
   これも、みんなが頑張ってくれたからだ。
   僕はあの日決意したように、どんな事もやってきた。
   徹底的にダメ出しをして、みんなから恨まれるような事もしてきた。
   でも、僕は後悔していない。こうすることで劇を成功させられるなら、いくらでもやる。
   僕自身のため…みんなのため。こうして結果が出ている今、充実感で胸がいっぱいだ。
   一番心配だったのは台詞を覚えられるかどうか。
   最初は水瀬さんがちゃんと台詞を覚えられるかどうか心配だったけど、すんなりと覚えてしまってびっくりした。
   僕はもう全部覚えている。
   ついでに他の役の台詞まで覚えてしまった。これで、本番こっそりと台詞を教えたりできる。
   ステージでは本番を意識した合同練習が始まっていた。
   まだ衣装は使ってないけど、台詞や演技は本番そのもの。
   この調子でいけば、きっと成功する。
   …いや、成功させる!
  「今から緊張してるやつはっけ〜ん」
  「なっ!?」
   後ろから声をかけられてびっくりした。
  「あははっ、そんなんで本番大丈夫?」
   クラスメイト…もとい、クラス副委員長の杏。
   いつもこいつとはケンカばかりだ。
  「なんだよ、そりゃあ緊張だってするよ。お前と違って僕は繊細なんだから」
  「あんたのどこが繊細だっていうのよ。感じ悪るぅ〜」
   うぐっ…やっぱりこいつは苦手だ。いつもペースを乱される。
  「はいはい二人とも。ケンカはいけませんよ?」
   薮内先生、僕は被害者です。
  「一護君、女の子にはもっとやさしく…ね?」
  「…はい」
   それは僕も分かっているし、普段から実行している。
   でも、あいつは…杏だけはなぜかできないんだ。
  「ほらほら、もっとあたしをやさしく扱ってよね〜?」
   …きっと、僕の本能がこんな女を優しくするなって言っているんだと思う。




  「それにしても、みんなよく頑張ってるよね」
  「一年に一回の大イベントだからね。気合も入るんじゃないかな」
   毎年あるとはいえ、その年では一回しかないんだ。
   その年一番の劇を見せたいと思うのはみんな一緒だと思う。
  「まぁ、あんだけあんたに言われたら…ねぇ」
   …さすがにいいすぎたって思うこともあったけど。
  「僕は謝るつもりはないよ」
   間違ったことはしていない。
   こういう汚れ役は誰かがやらなきゃいけないことなんだ。
  「はいはい、あんたらしくて結構結構」
   なんか馬鹿にされてる気がする…
  「じゃあ、また明日。遅刻するんじゃないよ〜」
   それはお前だ…
   なんとなく、手を振りながら遠ざかっていく杏が消えるまで、見送ってやることにした。




  「はい。では、今日の練習はここまで。まだ不安な人は家でも練習してきてくださいね」
   先生の号令で、ほっと一息つく。
   みんなも緊張感が抜けたみたいで、全体的に和んだ雰囲気になった。
   今日は学年合同でステージを使って練習をした。
   明日はいよいよ本番。
   いよいよ最終調整といったところだ。
   今日見た感じでは危ういところはない。
   これで、何事もなければ完璧に本番もできる…
  「いよいよ明日が本番なんだよね〜」
  「明日は頑張ろうね」
   明日…これまでの努力を出し切るんだ。
  「いい感じで気合入ってるねぇ」
  「…茶化すなよ」
   せっかく頑張ろうと意気込もうとしているのにこれだ。
  「はいはい。今からそんなんじゃ本番空回りしちゃうよ」
   失礼な。僕がそんなヘマするもんか。
   …っていけないいけない。また杏のペースに乗せられてる。
   平常心、平常心…
  「一護くんと杏って本当仲いいよね〜」
  「なっ!?」
   何気ないからかいの一言。
   なんかそれがものすごく恥ずかしくって、その場から逃げ出したくなった。
   …って何で杏相手にこんな気持ちになってるんだよ!
  「へぇ〜あたしとあんたって仲良かったんだ。どう思う?」
  「そんなこと僕に訊くなよ!」
   はぁ…本当、こいつだけは扱いに困るよ。




  「それにしても、明日が本番なのよね。練習期間があっという間だった気がするわ」
  「それは確かに…」
   みんな真剣だったからなぁ…時間が過ぎるのも早く感じるんだと思う。
  「みんなが一生懸命になったのって、あんたの影響もあるんじゃないかな?」
  「え、僕の?」
   昨日も同じ事言われたよな…
   それだけ僕がいろんな意味で目立ってたってことか。
  「あんた、いい意味でも悪い意味でもズバズバ言うタイプでしょ? それで上手いぐあいにみんなの士気が上がったんじゃない?」
  「…なんか、褒められてるのか貶されてるのか分からないんだけど」
  「両方」
   そこまできっぱり言われると気持ちいいよ。
   こんなにも仲が悪いのに、帰る方向が一緒だっていうんだから本当悲しくなってくる。
   こいつと一緒のクラスになってから、ずっと毎日ケンカばかりだ。
   来年のクラス替えの時には別のクラスに行って欲しいんだけど…
  「…あんた、結構格好いいところあるじゃない」
  「えっ?」
   何か言われた気がする。何を言われたのかまでは聞こえなかったけど。
  「杏、今なんて…」
  「それじゃあね。明日本番がんばるのよ」
   杏が走り出す。
   ふと周りを見てみると、杏の家の近くだった。
   僕の家はもうちょっと向こう。
  「あんたが失敗するところ楽しみにしてるからね〜」
  「あ、あのなぁっ!」
   まったく…人の気も知らないで。
   僕は絶対失敗できないんだ。
   お父さんが見にくるこの劇を、絶対に成功させなきゃいけないんだ!




  「おはよう、みんな」
  「おはよう、久瀬君」
  「おはよ、いよいよ本番だね〜」
   ああ、今日が本番なんだ。
   絶対失敗できない、本番の日。
   お父さんは劇に合わせて来るって今朝言ってた。
   来てくれるお父さんのためにも、今日は最高の演技にするぞ!
  「おーおー気合入ってる。そんなんでミスったりしないでよ?」
  「あのなぁ…お前は少し緊張感ってものが…」
  「大変だよ! みんな!」
   クラスメイトの大声にみんな一斉に声のしたほうを向く。
  「白雪姫役の美鈴ちゃんが風邪で倒れちゃったって!」
  「えっ…?」
  「ウソ…」
   よりにもよって一番大事な役じゃないか!
   代役を立てるにしてもどうしたらいいんだ…
   とりあえず台詞覚えている人を最優先で…
  「はいはいみんな落ち着いて。とにかく、代わりに白雪姫をやる子を決めましょう。台詞を覚えている人…いるかな?」
   手を上げる人はいない。
   こんなときに遠慮するなんて事はないだろうから、本当に覚えてきている人がいないのだろう。
   くそっ…ここまでみんな頑張ってきたのに…!
   誰か台詞を覚えている人…
   …いるじゃないか。ここに。
  「先生! 僕台詞覚えています!」
   クラスにどよめきが起こる。
   そりゃあそうだろう。一番役に縁遠い男が覚えてきているんだから。
  「僕が代役の子に台詞を伝えていくのはどうでしょう? 僕は大道具の後ろにでも隠れて…」
   それは名案だという声があちこちから上がる。
   台詞を覚えてきてよかった。まさかこんなことで役に立つなんて…
  「でも、それってどうやって役の子に伝えるの?」
  「一番手っ取り早いのはカンペかな」
  「…それって結構厳しいんじゃないかな。受け取って読んで処分してを役をこなしながらじゃ難しいよ」
   う…確かに。あらかじめしっかりリハーサルでもしないと厳しいか。
   インカムがあればもうちょっと楽なんだけど、あれは目立つし…
   僕の案が有効な打開策でないと分かると、またクラスに不安な空気が流れてきた。
   くそっ…考えるんだ! もっといい案を考えるんだ…!
   一瞬、杏がこっちをチラッと見た。
   何が楽しいのか、妙にニヤニヤして…
  「先生! 一番手って取り早い案があります!」
  「はい、杏さん。どんな案ですか?」
  「一護君を白雪姫にしちゃうんです!」
   一瞬、世界が凍りついた。
   どんな人生送ったらそんなアホみたいなこと考えられるんだろうか。
   第一そんな案、通るわけ…
  「そういえば…久瀬君ってわりと女の子っぽくない?」
  「声も結構高いんだよな、あいつ」
   …あれ?
  「ねぇ、結構名案じゃないかな? 髪はカツラがあるし」
  「やっぱり台詞覚えてるのが大きいよな〜」
   …ねぇ、ちょっと。
  「この案…異議ある人はいる?」
  「異議なーし!」
   クラス全員の声が重なった。
   …もちろん僕を除いて。


  「ちょ、ちょっと! こんな案反対だ! 無理がありすぎる!」
  「あら、そう? あんたなら結構いけると思うんだけど」
  「第一僕は男なんだぞ! そんな事できるわけ…」
  「久瀬君、クラスのためにお願いします」
   がっしりと肩を掴まれる。
   先生の目はかなり真剣だ。
   …僕がそういわれると断れないの分かってていってますね、先生。
   でも、こればかりは断らせてもらいます!
   これは男の尊厳の問題だ!
  「…成功、させるんじゃないの?」
  「っ!」
   そうだ、僕はこの劇を成功させると自分自身に誓い、みんなにも言っている。
   主役の不在それは即失敗に繋がる。
   なら、少しでも確率の高い案を採るのが普通だ。
   自分の発現には責任を持て。
   それは、お父さんがいつも言っている事。
  「…はぁっ」
   男の尊厳と劇の成功を天秤にかけた結果、尊厳は僅かな差で屈した。
  「僕が、やります」
   うぅ…今なら泣いても許されるよね?
   本当、泣きたい気分だ。
  「よし、よく言った一護伍長!」
   誰が伍長だ。
  「それじゃあ早速準備するよ。リハーサル含めたらもう時間ないんだから」
   はぁ…どうしてこうなっちゃったんだろ。
  「と、いうことであんたはこれに着替えて」
   いきなり紙袋を突きつけられた。
  「何これ…?」
  「白雪姫の衣装。サイズは…多分大丈夫でしょ」
  「う…やっぱり、着るの?」
   やはり抵抗感がある。
   みんなの前で女の子の格好するなんて…
  「ほら、さっさと着る!」
  「で、でも…いくら衣装着たところでごまかせないって!」
   いくら僕が女の子っぽいっていっても無理がある。
   …まぁ、服のサイズは問題ないだろうけどさ。
  「本番まで時間ないんだから! 早くしないとみんなで剥くよ?」
  「わ、わかったよっ! さっさと着るからちょっと待ってろよ!」
   うぅ…なんで僕がこんな目に…
   そりゃあ、何をやっても成功させるって誓ったよ。
   だからって、いくらなんでもこれはないよなぁ…
   着替えに使ってる隣の空き教室に急ぐ。
   はぁ…本当、今日は最悪な日だ。
  



   服を全部脱いで、紙袋から衣装を取り出す。
   さすがに絵本に出てくるような衣装じゃなく、ちょっとおしゃれな服を使っている。
   まさか、自分がこの服を着ることになるなんて想像できなかった。
  「えーっと…まずはブラウスを着て、次は…」
   スカート。目の前にある、紺色のスカート。
   うぅ…この屈辱、しばらく忘れない。否、忘れられない。
   足を通して、肩紐をかける。
  「うわ…なんだかスースーするなぁ…」
   なんか不思議な感じだ。
  「着替え終わったー?」
  「終わ…ったけど、これでいいのかな?」
  「どれどれ…?」
   杏だけじゃなくて、クラスの女子がみんなやってくる。
  「わっ! どうしてみんなでやってくるのさ!?」
  「いいじゃない、減るものじゃないし。…しかし、ここまで似合うと本当びっくり」
  「すごく可愛いよ、一護君」
  「うう…それ、褒め言葉じゃない…」
   水瀬さんの無邪気な褒め言葉が胸に刺さった。
  「後はウィッグをつけて、ちょっとお化粧すれば…」
   カツラをつけられて、軽く化粧までされる。
  「くぅっ…うらやましいぐらい可愛いわ…」
   メイク担当の女子が本当に悔しがっている。
  「あんた、素質あるんじゃない?」
  「いらないよこんな素質!」
  「まぁまぁ。とりあえず鏡で見てみなさいって」
   杏が近くにあった鏡を僕に向ける。
   綺麗な鏡に僕の変身した姿が映る。

  「え…」

   これが…僕?
   自分でも女の子っぽいって自覚してるけど、ちょっと化粧をしてカツラを被れば本当に女の子じゃないか…
  「これ…僕なの?」
  「鏡は嘘つかない。あんた、本当に綺麗よ」
   鏡に映っているのは、ショートヘアーの可愛い系の女の子。
   それが、僕だって…?
  「なんかフクザツ…」
   悲しい反面、嬉しかったりする。
   今までこの顔と声が嫌いだったけど、こうしてみると悪くない…かな。
  「台詞もバッチリ、姿形はそこそこ整っている。みんな、異議はない?」
  「異議なーし!」
   僕を除くクラス全員が賛成した。
   僕がシンデレラをやることはもう決定事項のようだ。
  「はぁ…どうしてこうなっちゃったんだろ」
   うぅ…こんなのお父さんが見たら絶対怒るよ…
   スカートをつまんで軽く持ち上げてみる。
  「僕、女の子じゃないのに…」
  「あぁ〜っ! もう! 可愛すぎ! 一護くんこれからずっとその格好でいてよ〜」
  「絶対イヤだよっ!」
   今でさえ嫌なのに…
  「ってそろそろ時間ヤバイよ。いくわよ、みんな!」
  「おっしゃ! やってやるぜ!」
  「俄然やる気が出てきちゃった! がんばるよ〜!」
   みんなの士気が上がったのは何より…かな。
  「ほら、あんたも気合入れる!」
   いつものように、杏は背中を叩く動きをする。

   ふわっ

  「うわっ!?」
   …かと思ったら、いきなりスカートめくりをされた。
  「なーんだ、女の子のじゃないんだ?」
  「あ た り ま え だ よ」
  「OK、一護。ここは落ち着いて」
  「やっていい冗談と悪い冗談があるよっ!」
   今のは間違いなく悪い冗談だ。
   はぁ…なんか、ますます気が重くなってきた。
  「ほら、行くよ?」
  「分かったってばっ、お前があんなことやるからだろ!」
  「いいじゃない、減るものじゃないし」
  「そういう問題じゃない!」
   くそっ…いつかこの借りは返してやる!
   …かといって同じことをしたら恐ろしいことになるだろうけど。




  9月XX日(曇り)

   今日は、お父さんと一緒に親戚の子が通っている学校に来ている。
   今日は学芸会で、お父さんは親戚の人に劇をビデオで撮ってと頼まれたみたい。
  「よし、テープ交換完了。次はいよいよ5年生か…」
  「お父さん…撮るのは親戚の子の分だけでいいんじゃない?」
   親戚の子は6年生で、一番最後。
   なのに、あたしたちは朝早くから来て、最初からずっといるのだ。
  「何言っているんだ、香里。今日は学芸会、小学生をビデオに撮り放題の絶好の機会じゃないか」
   今さりげなく恐ろしい言葉が聞こえた気がしたが、あえて聞こえないふりをした。
  「瑞々しい、小学生をこのビデオで存分に撮影できるんだぞ? こんな嬉しいことはない…」
   本気で喜んでいるお父さん。こんな血があたしにも流れているなんて信じたくない。
  「でも、テープ足りるの? もう10回ぐらい換えてるけど…」
  「心配するな、香里。この日のためにテープは全プログラムを撮っても余りあるほど用意してきた」
   ああ、うちのお父さんはこんな人だった…自分の欲望のためなら何でもするんだっけ…
   もうお父さんを止めることは出来ないのね…
   こんな趣味を持ったお父さんがいることが悲しくて涙した。そんな秋の日のこと。
  「次は〜5年……」
  「よし、セッティング完了。次は…白雪姫か」
   はぁ…せっかく来たんだし、劇はちゃんと見ておこう。
   なんだかんだで結構面白いし。
   ブザーと一緒に、照明が落ちる。
   上ではスポットライト係がスポットライトをステージに向けている。
   幕が引かれる。
   同時にスポットライトが当てられる。
   演目:白雪姫。
   あたしと同じ学園の子の演技が、始まる…
  







   お妃さまに命令された狩人は、白雪姫を連れて遠くの人気のない森へとたどり着きました。
  「白雪姫を人気のいない森へ連れて行き、殺してしまいなさい。そして、肺と心臓を持ち帰ってきなさい」
  「な、なんて事を…第一、肺と心臓なんてどうするおつもりです?」
  「それは、私が塩茹でにして食べるのよ。さぁ、早くお行きなさい!」
   狩人はお妃さまからの命令を思い出し、短剣を握り締めました。
   今、目の前にいるお姫様を殺さなければならない。
   こんなにも、こんなにも美しい女の子を殺さなければならない。
   狩人は、どうしても一思いに白雪姫を殺すことができません。
  「きれいな雪…ここは人が入ってこないから、すごく雪がきれい」
  「………………」
  「私、殺されちゃうのかな」
  「っ! な、なぜそれを…」
  「昨日、お母様があなたにそう言っているのを見てしまったの」
  「白雪姫さま…」
  「私を殺さなければ、あなたが殺されてしまいます。さぁ、私を殺してください」
  「な、なにを言っているのです! それがどういう意味か、分かっているのですか!?」
  「分かっています。私は殺され、死体を蹂躙される…」
  「………………」
  「でも、それがお母様の望みなら、私は…」
   白雪姫の目から、涙がこぼれました。
   その姿を見た狩人は、もう短剣を握ることが出来ませんでした。
  「許して…許してください…」
  「………………」
  「私には、白雪姫様を殺すことはできません…どうか、このまま森の奥へとお逃げください」
  「で、でも! お母様は肺と心臓を持ってくるように言ったのでしょう?」
  「…それなら大丈夫です。私に、お任せください」
   狩人は短剣を構え、森の奥へと歩いていきました。
   それからしばらくすると、狩人はいのししを担いで帰ってきました。
  「私からのせめてもの罪滅ぼしです。お妃さまは何とかごまかします」
  「狩人さん…」
  「それでは、白雪姫さま。お元気で…」
   狩人は白雪姫から離れたところでいのししをさばき、肺と心臓を取り出しました。
  

  「お妃さま、白雪姫は殺してきました。お約束の肺と心臓です」
  「…ご苦労さま。褒美を用意したから、すぐに帰りなさい」
   狩人を帰すと、お妃さまはすぐに肺と心臓を塩茹でにして食べてしまいました。
  「うふふ、これでもうあの忌まわしい白雪姫はいない…この国で一番美しいのは、私よ!」
  







   最初、演目が白雪姫という事で多少油断していた。
   いざ劇が始まると、すぐに違和感を感じた。
   そのはずだ。今やっている劇は、同じ白雪姫でもかなりのアレンジがされている。
   少なくても、絵本のとおりではないのは確かだ。
   これは…結構面白い。
  「しかし、白雪姫の女の子…すごく可愛いよなぁ」
   はぁはぁと荒い息をあげてステージを撮影しているお父さんのことはしばらく考えないようにしよう。
   …でも、確かに可愛いかも。
   あたしがお妃さまだとしてもあれぐらい綺麗な子なら嫉妬しちゃうかな…
   それにしても、本当すごい子…
   演技も上手いし、こんなにも役にあった雰囲気を出せるなんて…
   見に来てよかったかもなんて思える。
  「これは…これは永久保存版にしなければ…! こんな可愛い子を撮れるなんて、俺は今幸せだ…っ!!」
   …これがなければだけど。








   お妃さま扮する魔女が用意した毒リンゴを食べた白雪姫は、とうとう死んでしまいました。
   小人たちの必死な手当てもむなしく、白雪姫が息を吹き返すことはありませんでした。
   でも、白雪姫の美しさはいつまでも失われず、次第に小人たちも何事かと騒ぎ出します。
   お妃さまが用意した毒リンゴ。それは、死んでも美しさが失われない魔法が込められていました。
   無意識のうちにそうしたのでしょう。お妃さまの心には、まだ白雪姫は美しい娘である思いが残っているのです。
   毒リンゴの効果が分からない小人たちは白雪姫を棺に納め、助けてくれる人を待つことにしました。
   きっと、白雪姫はよみがえる。そう信じて待つことにしました。
  

   それから数年たったある日、小人たちの小屋に一人の王子が来ました。
   狩りの途中で仲間とはぐれてしまった王子様は小人たちに一晩泊めてくれないかと頼みました。
   王子様のお願いを受け入れた小人たちが王子様を小屋に招くと、王子様は部屋の真ん中にある棺に気がつきました。
   仲間が死んだのかと尋ねる王子様に、小人たちは白雪姫が毒リンゴで死んでしまったことを教えました。
   小人の一人が棺を開けると、そこには数年前と変わらない姿の白雪姫がいました。
   硬く瞳を閉じ、死んだように眠っている白雪姫。
   なんてかわいそうな事を…王子様は白雪姫の美しさに惹かれ、死んでしまったことを悲しみました。
   せめて、安らかに眠ってください。王子様は白雪姫の額に軽くキスをしました。
   するとどうでしょう。白雪姫はゆっくりと目を開け、起き上がったのです。
   驚く小人と王子様。でも、すぐに白雪姫が生き返ったことを喜び、踊りだしました。
  

   数年前、白雪姫を殺して喜んでいたお妃さまはすぐに重い病気にかかってしまいました。
   毒リンゴに込めた呪いが自分にも降りかかってしまったのです。
   それから少しずつ、ゆっくりとお妃さまは弱っていき…王子様が小人たちの小屋に来たその日、死んでしまったのです。
   呪いをかけた人がいなくなってしまっては、呪いは消えてしまいます。
   きっと、これもお妃さまが知らず知らずに考えていたことなのでしょう。
   白雪姫がお妃さまが亡くなったことを知ったのは、それから数日後でした。
  

   それから一年後。白雪姫と王子様は結婚し、幸せな日々を送っていきました。
   白雪姫と王子様の間に娘が生まれましたが…それはまた、別のお話。
  







   ブザーが鳴って、幕が引かれる。
   体育館全体からの拍手に見送られながら、白雪姫を演じたみんなが幕に隠れていく。
   しかし、これだけのものを見せ付けられると後の人がかわいそうかも。
   もし、台本があったら欲しいぐらいだ。
  「来てよかったかな…」
   今日ここに来て、初めてそう思った。
  「そうか、そうか。香里もビデオ撮影の魅力を分かってくれるか〜」
   …一瞬で早く帰りたくなった。
  



   ようやくクラス全員が教室に戻ってきた。
  「おつかれさーん!」
  「本当、成功してよかったね〜」
  「一時はどうなるかと思ったけどね」
   みんな思い思いに感想を漏らしてる。
   よかった、本当に。
   この充実感…やっぱりいいな。
  「そうそう。本当久瀬君のおかげで助かっちゃった」
   う…できれば忘れたいことを。
   でも…いざ舞台に立ってみると、そこまで嫌ではなかった。
   可愛い女の子に変身して、物語の主役になる。
   なんだかうまく言い表せないけど…すごくどきどきした。
  「お疲れさん〜"一護ちゃん"」
  「ぶっ!?」
   な、なんて事をっ! こいつは〜!!
  「でも久瀬本当に可愛かったな」
  「あんな子がクラスにいたらなぁ…なんてつい思っちゃったよ」
  「俺、もう男でもいいかも…」
   …不穏な空気になっている。一刻も早く逃げ出したい。
  「も、もういいだろ? それじゃあ僕はすぐ着替えてくるからなっ」
  「あ、ダメだよ。結果発表まではそのままでいてくれないと」
   結果…発表?
   あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!! わ、忘れてたぁー!!
   今年から、一般参加の人たちのアンケート投票で学年ごとに一番よかったクラスが発表されるんだっけ!
   …もしかして。
  「先生、お話があります」
  「うぅ〜仕方がなかったんですよ〜負けたらどんな恐ろしい罰ゲームが待っていることやら…」
   はぁっ…なんか、本当いろんな意味で疲れた。
   表彰には劇の主役2名が代表として出る。
   つまり、最悪僕はまたこの格好でステージに立たなければいけないのだ。
   おまけに、表彰となると名前も出されるだろうし。
   ああ…なんて事だ…その光景を想像しただけでも恐ろしい。
  「大丈夫だって、とりあえず最後まで女の子のふりしておけば誤魔化せるよ」
  「…今日、僕のお父さんが見に来てるんだ」
  「うわ…ご愁傷様」
   お父さん。こんな息子を許してください。
   心の中で目の幅の涙を流した。
  「まぁ、何とかなるんじゃない?」
  「そんな中途半端なフォローいらないよ!」




   数時間後、すべての学年で劇が終わってアンケート用紙が回収された。
   集計まで結構時間がかかるかと思っていたら、学年ごとに集計をしているようだ。
   で、その間ただ待たせるわけにもいかないということで、先生たちで劇をやっていた。
   時々先生がいなくなるのはこういう事だったんだ…
   若い先生から年老いた先生までみんなが息を合わせて劇に取り組んでいた。
   先生も僕たちと同じで、一生懸命なんだな…
   台詞をとちったり、いろいろと失敗してたりしたけど、すごく面白い劇だった。
   で、僕たちは席に座って劇を見ているんだけど…
   僕と王子様役の二人だけ着替えないで最前列に座っている。

  「あれって誰だ…? マジで可愛くないか?」
  「あんな奴いたっけ…? いたら絶対覚えてるんだけどな」

   ああ…視線が集まってるよ。決して自意識過剰なんかじゃなくて、本当に視線を感じる。
  「不幸だな、一護」
   王子様に肩をポンと叩かれる。
  「不幸なんてものじゃないよ…本当」
  「まぁ、そんなお前も可愛いけどな」
   鳥肌が一気に立って、その場から逃げ出そうと本能が働いた。
  「…ってのは冗談だ」
   …頼むからやめてくれ。本当に。
   やがて、ブザーと一緒に幕が引かれて先生たちの劇が終わる。
  「お待たせしました。次は、表彰式です」
   一年生からクラスと演目を読み上げられる。
  「次は五年生…」
   とくんと心臓が鳴った。緊張する。
   呼ばれませんようにと思う反面、呼ばれたいとも思ってしまう。
   どっちなんだよ、僕…!
  「……組。演目、白雪姫」
   …ああ。選ばれてしまった。
   心の中の僕が目の幅の涙を流している。
   ふつうなら大喜びする所だけど、今は素直に喜べない。
   さっき、一般席にお父さんがいるのは確認した。
   この姿を見られるのか…二度も。
  「ほら、いくぞ。とりあえず笑って過ごしときゃ誰も気づかないって」
  「…だといいんだけどね」
   王子様と白雪姫がステージに上がる。
   丁寧に王子様が白雪姫をエスコートする形でだ。
   会場から明らかにどよめきが上がる。

  「おい…あの子、マジで可愛いんだけど」
  「あんなこと一緒にやりたかったよなぁ…」
  「すごく可愛い女の子がいる件について」

   あはははは…

  「うらやましいよなぁ…王子様役の奴。俺が変わりたいよ」
  「なんかさ、雪の中に咲く一輪の花って感じだよな」
  「白雪たんの詳細キボ」

   あははははははははは…

  「やべぇ…俺本気で惚れちまったかも」
  「おいおい、冗談だろ? まぁ、気持ちは分からなくないけどさ」
  「萌えー萌えー萌えー」

   あははははははははははははははははははははっ!!
  







   日が傾いて夕焼けが街を染める頃、学校では後片付けを終わらせた順に帰り始めていた。
   うちのクラスも半分は帰っている。もう半分も、あとちょっとで帰れる状態。
   あのあと僕は急いで着替えて、化粧を落とした。
   あの格好のままでいたら確実に取り返しのつかないことになる。
  「なんか罪悪感…」
   みんながきれいだって言っていた白雪姫が実は男でしたなんて事になったらどんな事になるだろうか…
   …想像したくない。
   まぁ、こんなことも今回限りだろうし。いい思い出になったと思えば…
   思……え…ば
   あ、ちょっと泣けてきた。
  「そういえばこの衣装ってどうするの?」
  「あ、もう捨てるつもりだったんだけど…」
  「じゃあ、もらっていってもいいかな?」
  「いいよ。まだきれいだし、捨てるぐらいなら着たほうがいいしね」
   杏、あの衣装をどうするつもりなんだろ…
   普段着てもおかしくはないデザインだけど、まさか着るのか…?
   う〜ん…想像できない。
  「ほら一護、手が止まってるよ? さっさと終わらせて帰る!」
  「はいはい分かったよ〜」
   まぁ、どう使おうと別にいいか。
   それから30分ぐらいして後片付けも終わり、残っていたみんなが帰り始めた。
  



  「はぁっ…」
   家に帰るのがこんなにも辛いなんていつ以来だろうか。
   お父さんはもう分かってるんだろうなぁ…
   むしろ分かってないとそれはそれでショックだ。
   やっぱり、怒られるんだろうなぁ…
  「男子たるものがあんな格好をするとは何事だ!」
   うぅ…何でこんな事に…
  「はぁっ…」
   今日何回目のため息だろ、これ。
  「せっかく成功したのにそんなシケた顔するんだ」
   いきなり後ろから声をかけられてびっくりして振り向いた。
   振り向いた先にいたのは…妙に嬉しそうに笑ってる杏。
  「や。なんか一人で暗黒時空作ってるやつがいたからさ」
  「…誰のせいだよ」
  「あーっ! 風邪で休んだ美鈴さんのせいにするつもり? サイテー」
  「だ・れ・か・さ・んの案のせいで僕はあんな格好するハメになったんだよ!」
   あえてだれかさんを強調してやる。
  「でも成功したじゃない。結果オーライってやつ?」
   こいつは…
  「お父さんが見に来てくれたのに…あれじゃあ怒られるじゃないか」
   いつもは忙しいお父さんが来てくれたのだ。
   だからこそ、僕は最高の劇にしたかっただけなのに。
  「…なんだかんだいって、あんたって立派だと思う」
  「え…?」
  「だってさ、台本の台詞全部覚えてきたんでしょ? それって普通できないと思う。
  それに、ぶっつけ本番でちゃんと演技までこなすなんて、普段全体をよく見てる証拠じゃない?」
  「………………」
  「だから、あんたは胸張ってもいいんじゃないかな」
   …らしくない。
   杏らしくない、けど。
   なんか…すごく嬉しい。
   なのに、素直に言葉が出てこなくて。
  「お前に言われなくても分かってるよっ」
   ついいつものように意地張ってしまう。
   …これじゃあ杏と一緒だ。
   自然と、嫌じゃないけど。
  「はぁっ…あんたって本当可愛げないにくったらしいお子ちゃまだこと」
   う…なんかムカツク。
  「もうちょっと素直になりなさいよ? ほら、これあげるから機嫌直して」
   杏が何か投げ渡してくる。
   紙袋に包まれた何か…中身は分からない。
  「なに…これ?」
  「あたしからの成功祝い。中身は帰ってからのお楽しみってことで」
   そこはかとなく嫌な予感がするが、一応受け取っておいてやる。
  「じゃあ、また明後日…かな。元気よく学校来るのよ〜」
   わき道を走っていく杏。その背中がだんだん小さくなる。
  「………ありがとう」
   ちょっとだけ素直になって、お礼を言ってみた。
  



   お父さんは僕が白雪姫であることに全然気づいていなかった。
   それだけあの衣装と化粧で印象が変わったのだと驚いて、同時にショックも受けた。
   僕が白雪姫をやったこと、どうして白雪姫をやることにしたのか話すと、お父さんはとても嬉しそうに僕の頭をなでてくれた。
   僕はそれが嬉しくって、今日の事がすべて報われたって思った。
   お母さんやお姉ちゃんも可愛かったって褒めてくれた。…ちょっとフクザツだけど。
   お姉ちゃんにいたっては「やっぱり一護ってそういう才能があるのよ」なんて言うのだ。泣きそうになった。
  「はぁっ…なんか余計疲れたよ」
   部屋に帰って、ベッドに体を投げ出す。
   今日一日でいろいろな事があった。
   美鈴さんが風邪で寝込んで、白雪姫役を僕がやることになって…
   なんだか漫画みたいな一日だった。
   可愛かった…か。
   ついその言葉に反発しちゃうけど、心のどこかでその言葉か嬉しかったりする。
   …一時の気の迷いだ! 忘れろ、僕!
   そうだ、これからはこんな事することもなくなるし、可愛いなんて…

   鏡に映る、僕じゃない僕の姿。
   ショートヘアーの可愛い女の子、それが僕。
   自分じゃない、何かに変身する…不思議な感覚…
  
   うぅ…なんかモヤモヤする。
   もう寝てしまおう。寝て忘れてしまおう。
  「ってその前に」
   杏からもらったものを見てしまおう。
   どうせロクなものじゃないだろうけど、一応礼儀としてだ。
   紙袋の封を開けて、中身を見る。
   そこにあったのは、紺色の布と白い布。そして、青い髪の毛…
   間違いなく、数時間前僕が身につけていた舞台衣装だった。
  「ロクなものじゃないよ本当!」
   そういや杏、舞台衣装もらってたっけ。
   よりにもよって、何てものよこすんだ…
   さっさと捨ててしまおう。
   こんなもの持ってても、意味が…ない…
  「………………」

   鏡に映る、僕じゃない僕の姿。
   ショートヘアーの可愛い女の子、それが僕。
   自分じゃない、何かに変身する…不思議な感覚…
   可愛い女の子に…僕が、変身できる…
  
   カチャン

   ドアに鍵をかける。
   着ていたパジャマを脱いで、下着だけになる。
   変身…できるんだ…
   あの女の子に。自分自身、ドキッとするぐらい可愛いあの子に。
   紙袋をひっくり返すと、かつらと衣装がベッドに落ちた。
  





つづく



あとがき

戻る