「以上で諸注意の説明は終了だ。それでは皆いい年を」
石橋が嬉しそうな顔でそう締めくくると日直の香里が立ち上がった。
「起立」
号令に合わせてクラスの全員が立つ。
「礼」
皆一斉に礼をする。
「着席」
まるで皆で合わせたように座るタイミングはぴったりだった。
チャイムが鳴った。
「では、また来年」
石橋は出席簿を持ってそのまま教室を出て行った。
一瞬の静寂。
気味が悪いぐらいの静寂。
それは本当に一瞬の事だった。
「よっしゃあ!! これから遊び倒すぞ!!」
「ねぇ、これからどこ行く〜?」
「締め切りが…なんとしてでも間に合わせなければ…」
この教室だけではとても発せないぐらいの喧騒に学校中が包まれた。
仕方がない、今日は終業式なのだ。
しかもクリスマスイブときたものだ。
期末テストや受験勉強で疲れた心を一時でも忘れたくなるのは俺だけではないはずだ。
「祐一っ、今日から冬休みだね〜」
嬉しそうな顔で嬉しそうに話しかけてきた。
「ああ。とりあえず今年中は英気を養いたいな」
本格的な受験勉強は来年から頑張る事にしよう。
うん、頑張ろう。
落ちたら洒落にならないから頑張ろう。
「顔で笑って心で泣いてって状態かしら?」
「言うな、言うなよぅ…」
せめて今日だけはおもいっきり遊ばせて欲しいものだ。
それに、今日は大事な日だからな…
「そういえば祐一は後から来るんだよね?」
「ああ。そうだぞ」
今日は水瀬家でパーティーをするのだ。
俺はこれから別の用事があるのでパーティーに参加…もとい家に帰るのは夜になりそうだ。
そうなるとほとんど準備は名雪や秋子さん、香里に任せっきりになってしまう。
しかし、手伝おうと言うとを3人揃って楽しんできなさいって言われてしまった。
ここは甘えてもいいかな…という事で今日は夜まで楽しませてもらうことにした。
「ちょっとお願いがあるんだけどいいかな…?」
「おぅ、いいぞ」
「このメモに書いてあるものを買ってきてくれるかな? 帰る途中でもいいから」
「ふむ…」
メモに書いてある買い物のリストにはいかにもクリスマスパーティーらしいものがいくつもあった。
「これぐらいならお安い御用だ」
「ありがとう。助かるよ〜」
役目が食べるだけにならなくてちょっと安心した。
鞄を持って立ち上がった。
「あら、そのままで行くんじゃないの?」
「制服のままじゃさすがにマズイだろ」
「それもそうね。でもスリルがあって楽しそうじゃない」
「下手すりゃ補導されるだろ…」
残念だが俺はそんなにスリルを求めちゃいない。
「それより香里も一旦帰るのか?」
「ええ。持ってくるものもあるし」
料理とかもするだろうから制服のままじゃさすがにマズイか。
「さて、それじゃあ…」
「相沢! クリスマスだぞ! 漢祭りだぞ!」
そんな祭り参加したくない。
いつも以上に暑苦しい北川がにじり寄ってきた。
後ろには北川と同じぐらい暑苦しいオーラを纏った男子が数人いる。
「相沢はこの後用事はあるのか?」
「ある。むしろデート」
「そうか、そうか。相沢もクリスマスは一人…」
「ってデートだとぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!?」
「ああ。それに今日は家で飲んだり騒いだりする予定だ」
「家でって…水瀬さんや香里も参加するのか…?」
「ああ。あとこれからデートする彼女も」
「何ぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!? 貴様いつから彼女なんて…」
「って居たんだよなぁ…」
改めて事実を知った北川はその場で膝を両手をついた。
「そうか…彼女とデートか…」
「ああ。時間がないから話があるなら早めに切り上げてくれると助かるんだが」
「だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「うぉう!?」
突然北川は奇声を上げて立ち上がった。
「不公平だ! この地にもう何年も住んでいる俺にいまだに彼女ができなくて、転校してきた相沢に彼女がいる…」
「これは不公平以外の何物でもない! そう思うだろう! 皆の衆!」
「あ、あのなぁ…いきなりそんな事言われても困るんだが」
「ええい! ノロケなら他所でしてくれ! いいか相沢! 今夜は漢祭りだ! 皆で酒を飲み、世間の浮ついた輩を
ぼぐしっ!
「あべしっ!!」
俺の顔の横をすり抜けるように風が走ったかと思うと、北川はいきなりその場でぶっ倒れた。
恐る恐る後ろを振り向くと香里が仁王立ちしていた。
「相沢君、早く帰ったほうがよさそうよ」
「あ、ああ…」
凶器は拳らしいが見えなかった気がするぞ…
香里はなんでもなかったようにそのまま鞄を持って歩き出した。
「あたしは先に帰ってるわ。また後でね」
「うん、待ってるよ〜」
「じゃあね。名雪、相沢君」
香里は軽く手を振って教室を出た。
「………」
「………」
北川に制裁を加えたことをここまで流されるとまるですべてが絵空事のように思えた。
「そ、それじゃあ俺達も帰るか」
「うんっ」
北川が倒れている間に帰ることにした。


「う、うぅ…」
ちょうど教室を出るところで北川がゆっくりと起き上がった。
「そうか…彼女か…」
「………」
「やっぱり一人って寂しいよなぁっ、皆!」
「北川ぁ! 分かるっ! 分かるぞぉ! 苦しいよなぁっ、悲しいよなぁっ!」
「想いは皆同じかっ…俺は…俺は…っ!」
「何も言うな! 今日は飲むぞ! 飲んでこの苦しみや悲しみを忘れるんだ!」
「ああっ! 男同士ってすばらしいよなぁ!」
教室から「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」と男子達の咆哮が聞こえてきた。
「な、なんか凄いね…」
「…皆に幸あれ」
幸せになれよ…なんて本気で思ってしまった。


家に戻ってからは大忙しだった。
急いでシャワーを浴びて、髪を整えながら歯磨き。
腰にタオルを巻いた状態で部屋に戻ったらシーツを代えに来てた秋子さんに遭遇してしまった。
タオルが外れてしまってもろに見られてしまい、秋子さんの悲鳴で名雪が慌てて駆けつけてまた見られたり…
ようやく準備が終わって出られたのは遅刻ギリギリの時間だった。
「ちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
大慌てで待ち合わせ場所に向かって走り出した。
途中で香里に会って「遅刻しないようにね」なんて言われてしまった。
やはり部屋に戻る前にパンツぐらいははいていたほうがよかったかもなんて後悔した。


「はぁっ、はぁっ…」
酸素不足で荒い呼吸を少しずつ整えていく。
よく冷えた空気が熱くなった体を冷やしていく。
ここまで全力で走るなんて久しぶりだ。
最近名雪の寝起きがよくて全力で走ってなかった。
呼吸が整ったところで歩き始める。
待ち合わせ場所までは歩いていくことにした。
走ってきたなんて言ったら笑われるか非難されるかのどっちかだしな…
待ち合わせ場所までは一分もかからなかった。
いつもの笑顔で出迎えてくれるんだろうなって思っていた。
「あれ…?」
歩いているうちに不思議に思っていたが、こうして着いてみて改めて分かった。
いない。
待ち合わせ場所には誰もいなかった。
…おかしい。
こんなこと今まで一度もなかった。
いつも待たせているのは俺で、「待ったか?」の言葉が口癖になっていた。
そのはずだった。
「………」
ちょっとした事だ。
たまたま今日は遅れてしまったんだろう。
本来ならそう思わなきゃいけないはずだ。
でも、俺の心はそう都合よくはできていない。
不安。
心の中をもやもやと漂う薄黒い感情。
不安で心が塗りつぶされていく。
最悪の状況が色々と頭の中を駆け巡る。
落ち着け、落ち着け。
こういうときこそ落ち着かなきゃいけないだろ。
深呼吸を一つ。
気持ちを切り替えるために深く、目を閉じた。
きっと大丈夫。
こうして待っていれば、必ず…
「わっ、わわっ!?」
一瞬、声が聞こえた。
あまりに一瞬でそれが誰なのかまったく分からなかった。
どんっ!
「うわっ!?」
体に走った衝撃に驚いて目を開けた。
そのままよろけて背にしていた壁にもたれ掛かった。
軽く腰を打ったがこのまま転んで雪まみれになってしまうよりはマシだ。
「つぅ…いきなり何なんだ…」
目の前で起きている状況を確かめてみる。
とりあえず、俺にぶつかってきたのは女の子のようだ。
まだ俺にぶつかったままで固まっている。
密着しているせいで胸が当たって嬉しいのは内緒だ。
…って、この感触は。
「いきなり抱きつきとは大胆だな、栞」
「うぅ〜違いますよぉ…」
ゆっくりと栞が俺から離れる。
顔は真っ赤で息が荒い。
肩にかけられたストールもなんだか乱れているようだ。
「なぁ、もしかして走ってきたのか…?」
「は、はい。部屋の時計が止まってるのに気づかなくて…」
それは災難だな。
そうか、そうだったのか…
「はぁぁぁぁぁぁっ…思いっきり心配したぞ」
「えっ? 心配…?」
「どこかで苦しくなって倒れたりしてたりとか変な男に捕まったんじゃないかって」
そう、怖かった。
このままずっと待っていても栞は来なくて…
そのまま雪のように消えてしまうんじゃないかなんて…
「………」
「えいっ」
びしっ
「あうっ」
いきなり栞にデコピンを喰らわされた。
「もう…祐一さんは心配性過ぎです」
しかも非難された。
「確かに私の体は他の人に比べたら弱いほうです。でも…」
「今こうしていられるのは祐一さんから貰った元気のおかげなんです」
「いつも元気いっぱいの祐一さんの元気ですから効果てきめんです」
「いつも元気いっぱいって…」
褒め言葉…なんだよな?
「だから、もっと私のことを信じて欲しいです。時には頼りにして欲しいです」
「栞…」
さっきまで心を覆い隠していた不安はもう微塵もなかった。
むしろさっきまでの自分が馬鹿らしく思えてきた。
そうだよ、自分の恋人だぞ? 信じないでどうするんだよ。
「ごめん。そうだよな…あまり心配されるのもやっぱり嫌だよな」
自分が同じ立場だったら…と思うとやはり嫌だと思う。
「いいえ、心配するのは仕方がないですよ」
「それに…今日は私が遅刻ですから…」
恥ずかしそうに、申し訳なさそうに俯いてしまう。
そんな姿もちょっと可愛いななんて思ってしまった。
「さて、それじゃあ気を取り直して始めるか」
「はいっ! 今日は年に一度の大切な日です」
12月24日。
クリスマスイブという一年に一度の大イベントが始まりだした。



winter songを聴きながら♪




まずはお互い昼食がまだなので腹ごしらえ。
待ち合わせ場所にも使った百花屋で済ませることにした。
「で、今日は夜にはうちに来るっていうのはOKだよな?」
「はい。ちゃんと交換用のプレゼントも用意してますよ」
今日の夜、水瀬家でパーティーをするのは大分前から決まっていた。
秋子さんや名雪はもちろん、栞もノリノリで準備を進めていた。
香里も積極的に参加するのはちょっと意外だった。
こうして準備を始めたのは1週間ほど前から。
ちょうどそのあたりに俺は栞に「夜までデートしないか?」と誘ったのだ。
パーティーでも一緒なのは変わりないけど、こうして二人きりというのが重要なのだ。
二人きりでしかできない事もたくさんあるわけで…
当然どんな事をしているかは香里や秋子さんには言えない。
特に香里に言ったらどんな恐ろしいことになるだろうか…
「そういや今日はどこか行きたいところとかはあるのか?」
「私は特にないですよ。祐一さんはどこかあるんですか?」
「うん。映画でも見ようかと思ってチケットを買っておいた」
何をやっているかは当然チェックしていない。
こういうのは着いてからのお楽しみにするのがいいのだ。
「映画ですか…」
「クリスマスの夜に二人で映画を見るカップル…すごく素敵です」
ドラマみたいな恋に憧れる癖はまだあるようだ。
「映画は何時からなんですか?」
「そうだな…飯を食って一休みしたらいい頃合だな」
次の上映まで小一時間といったところだ。
「映画ですかぁ…すごく久しぶりです」
「そういや俺もしばらくぶりだな」
ここ最近は劇場まで行って見たい映画がほとんどないからな…
何か面白そうなものがあれば見るようにするか。
コップに入っていた水を全て飲み干したところで注文したものが届いた。


「おぉ…見事に恋愛物ばかりだな」
映画館に張り出された上映予定のポスターはどれもこれもが恋愛物だった。
子供向けのアニメもやっているみたいだが、そのポスターだけ見事に浮いていた。
しかし、こうも恋愛物ばかりだとどれを見るか悩んでしまう。
それも困った意味でだ。
俺はどうも恋愛映画と相性が悪い。
ロマンが欠けてるわなんて香里に言われたが無いものは仕方がない。
「栞は見たいものはあるか?」
ちょっと情けないが栞が見たい映画があるならそれにしてもいいと思った。
「………………………」
栞は張り出されているポスターを見つめていた。
正確に言うとある一つだ。
少し前に話題になった映画だった。
タイトルはうろ覚えで思い出せないけど、テレビで放映されたのを見たときそこそこ面白かったやつだ。
「祐一さんは見たいものはありますか?」
「無い。正直言うと困っていた」
言った途端笑われた。
「そこまで笑われると悲しいぞ…」
「ご、ごめんなさい…でも、おかしくって」
まぁ、無理も無いよな…
「それじゃあ、祐一さんは見たいものが決まってないみたいなので私が決めちゃいますね」
唇に指を当てるいつもの癖で笑う。
その癖を見ていると、なんだか心の奥から暖かいものが溢れてくる気がした。
手を伸ばせばすぐそこにある変わらない日常。
それが俺にとって、何よりの幸せなんだ。
「祐一さん、どうしたんですか?」
「ん、いや…なんでもないさ」
「気になりますよ〜考え事しているみたいにボーっとしていましたし…」
「気にするな。という事で早く入るぞ」
栞の手を取って映画館へと走った。
「わっ、わわっ! はぐらかさないでくださいよ〜」
栞の非難を背に受けながらチケット受付窓口まで駆けていった。


割と広く作られている館内にはそこそこ人が入っていた。
奥から一直線に伸びるライトに埃が照らされ、キラキラと輝いている。
席に座ったころには上映開始時間が迫っていた。
あまり待たないで済んでちょうどいい。
見る映画は栞が真剣になって見ていたポスターのやつにした。
「そういえば、栞はこの映画見たことあるのか?」
真剣にポスターを見つめるその顔はどこか寂しげで、懐かしそうに眺めているようだった。
この映画になにかしら思い出があるのかもしれない。
「はい。映画館じゃなくてテレビでですけど」
そうか…これが映画館で上映されている時はまだ入院していたんだよな…
もしかすると印象的なシーンが今でも残っているのかもしれない。
どのあたりがお気に入りなんだ…と聞こうとした時、上映開始を知らせるブザーが鳴った。
まぁ、見た後で聞いてもいいか。
体をずらして椅子に深く腰掛けた。
隣にいる栞は真剣にスクリーンを見つめていた。
どこか寂しそうな印象が頭から離れなかった。


映画は純粋に面白かった。
冬を舞台にした話で、少しファンタジー要素が含まれていた。
見ていて思い出したのだが、原作は普段絵本を書いている作家が手がけたものだった。
構成は少し単純だったけど、いい意味で予想を裏切ってくれる展開のおかげで最後まで楽しめた。
一度見たはずなのだが、それでもここまで楽しめるとは正直驚いた。
そして、気がつくと映画の主題歌にあわせてスタッフロールが流れ始めていた。
こうなると席を立ち始める人が多くなってきた。
俺も普段なら最後まで見ないで帰ってしまう。
実際、一度は腰を上げようとした。
しかし、立ち上がらずに再び椅子に深く腰掛けたのは栞が真剣に最後まで見ようとしていたからだ。
いや、違うな。
栞はスクリーンを見てなかった。
瞳を閉じ、じっと座っている。
今場内を流れているこの歌を聴いているのだ。
この歌は映画の公開と同時に出たやつで、当時はしばらく上位に残っていた曲だ。
冬の情景を描いた歌は発売当時も冬だったこともあって一時期はどこもこの曲が流れていた。
今では懐かしいなんて言われるけどこうして聴いてみるとここ最近の曲よりもずっといい。
曲が終わるころには席に座っている人は俺達を含めてほんの僅かになっていた。
「………」
しんとした館内。
照明がついて、スクリーンに映るものも無くなった。
残っていた人たちも一人、また一人と出て行く。
その中で、栞はただボーっと座ったままだった。
「栞、どうしたんだ?」
もしかして体調が悪くなったりしてしまったのだろうか?
拭えない不安が押し寄せてくる。
「この曲…」
ぽつりと栞がつぶやいた。
この曲…今流れているこの曲の事なんだよな…?
栞はつぶやいてはっとしたように辺りを見回した。
「あれっ…みんないなくなってますね?」
本当に不思議そうに辺りを見回す。
思わず脱力して膝から崩れ落ちてしまった。


空はすでに茜色に染まっていて、辺りを赤く染め上げていた。
時間的にもちょうどいい頃合なので、買い物を済ませて帰ることにした。
「本当にごめんなさいっ」
映画館から出たと思ったらいきなり栞が深く頭を下げて謝ってきた。
「いや、いいさ。それより気になる事があるんだが…」
さっき栞が言った言葉。
「この曲…」に続く言葉はいったいどんな言葉なのだろうか。
「さっきまで聴いていたあの曲の事…ですよね?」
「ああ」
ふと、栞は空を見上げた。
隣にある横顔は昔のころを思い出して懐かしんでいるようにも、悲しんでいるようにも見えた。
「あの曲は…」
ぽつりと漏らした一言。
それはとても儚く、冷え切った空気にかき消されてしまいそうなぐらい小さくて…
「昔、患っている病気が治ることが奇跡だって言われた日に聴いていました」
続けた言葉はあまりに重たい。
俺も栞も歩みを止めない。
なんでもない世間話のように話すそれは…思い出という名の痛みだ。
二人とも歩いたまま、話は続いた。


あれは今日みたいにすごく寒い日でした。
その日、私は入院するために家族と一緒に病院に行きました。
いつものように検診を受けて、注射と飲み薬を飲んでから病室や入院期間の説明をされました。
説明が終わったところで私と看護婦さんで先に病室に向かうように言われ、病室に向かいました。
着替えやその他いろいろな準備はあっという間に済みました。
そのときはもう入院している時間のほうが長かったんです。
それからしばらくは暇になるみたいだったのでロビーに暇つぶしに行くことにしました。
仲良くしていたおばあちゃんと話すのもいいし、大きなテレビで再放送のドラマを見るのも面白いです。
そのとき、私はいつもの入院と同じだって思っていたんです。
ちょうど医局を通りかかるときにドアの隙間からお母さんの声が聞こえてきました。
その声はすごく大きくて、すごく悲しそうでした。
何があったんだろう…
心配と好奇心でいっぱいになって、私はそっとドアの隙間から話を聞くことにしました。


「落ち着いてください、可能性はゼロではないんです。ただ…」
「ただなんだと言うんですか! ゼロではないとは言いますけど…」
「治ること自体奇跡なんて、治ることを期待できるわけないじゃないですか!」
「おい、先生も全力を尽くしてくれるって言っているんだ。それを責めるのは…」
「…ええ、それは分かっています。でも、それでも…っ」
「もう、栞の元気な姿を見るのは奇跡に頼るしかないなんて…っ!」


まるで全てがドラマの中の出来事のようでした。
病気の女の子が主役のドラマも見たことあります。
目の前で起きていることがそのドラマの出来事のように思えてしまったんです。
でも、それは紛れもない現実だって気づいたら…

「ひっく…私…死んじゃうんですね…」


病気の事ではもう泣く事はないと思っていたのに、涙が止まりませんでした。
そして、そのまま走り出しました。
行く先は決めてません。ただ、その場に居たくなかったんです。
私は生きているんだって、そんな証が欲しかったんです。
ただ走って、がむしゃらに走って…気がついたら少し離れた商店街についていました。
荒くなった呼吸を整えて、ふと立ち止まって商店街を見て驚きました。
色とりどりのイルミネーションで飾られたお店や道路。
赤い服を着たおじさんやお姉さんが看板を持ってお店の宣伝をしている風景。
子供連れの親子達。
そのとき、私はようやくクリスマスが近いんだって分かったんです。
真っ白い壁、真っ白いカーテン、真っ白いシーツ。
窓から見える切り取られた風景がいつでも自由に見れる外の世界でした。
気がつかないうちに季節は廻っているんです。
私を取り残して、春夏秋冬と…
商店街は楽しい雰囲気に包まれていました。
子供たちの笑い声、恋人同士のささやき。
いろいろな喧騒が楽しい雰囲気を作っていたんです。
ここでも私は一人ぼっちでした。
入院のせいで休みがちだった学校でも一人ぼっち。
お姉ちゃんもそのときは私を避けていました。
お父さんとお母さんがいたからまだ耐えられたかもしれないです。
でも、寂しさはいくら拭っても拭いきれません。
そのとき、私のそばには誰もいなかったんですから…
一人で楽しい風景を見ている、やがて死んでしまう私。
気がつくとまた涙が止まらなくなりました。
寂しくて辛くて、どうしようもなくなってただ泣くことしか出来ませんでした。
そのとき、後ろから私より背の高い影が私を覆いました。

「…こんなところで何してるのよ」

この声は聞き覚えがありました。
忘れるはずもありません。
だって、その声は…私の大切なお姉ちゃんの声なんですから。

「お父さんとお母さんが心配してるじゃない…外に出るならちゃんと言わないと…」

そこまで言ってお姉ちゃんは目を見開いて驚きました。
私の顔に何かついているんでしょうか…と思ってはっとしました。
私は泣いていたんです。
お姉ちゃんが来る前から、お姉ちゃんが来てからも。

「どうしたの栞っ! どこかケガしたの…!?」

お姉ちゃんが心配そうに私の肩を掴んで聞いてきました。
それはあまりに突然すぎて私はしばらく固まってしまいました。
そして、気づいたんです。
お姉ちゃんはやっぱりお姉ちゃんなんだって。
このままずっと嫌われたままなのかなって心配したこともありました。
でも、もしかしたら…病気さえ治ったらまたお姉ちゃんと一緒に遊べるかもしれない。
そんな希望で胸がいっぱいになりました。
私は一人ぼっちじゃなかったんです。
まだこうして心配してくれる人がいる…それで十分でした。
止まるはずだった涙がまた止まらなくなって、ますますお姉ちゃんを心配させちゃいました。
大丈夫と小さく言うのが精一杯でしたけど、それでお姉ちゃんは落ち着いてくれました。
それから私たちは通りにあった自販機で暖かい飲み物を買って一緒に飲みました。
すぐ帰るって言うお姉ちゃんにわがままを言ってしばらく引き止めちゃったんです。
ちょうどそのときでした。
街灯の上にあるスピーカーからあの曲が流れてきたのは。
曲が流れるのと一緒にちらり、ちらりと雪が降り始めてきました。
その曲は冬の歌のはずなのに…メロディや歌詞がすごく暖かかったんです。
お姉ちゃんと一緒にその歌を聴きながら、しばらく雪を眺めているその時間がなにより幸せでした。
生きている時間の中では一瞬の時間だけど、それでもすごく大切な時間でした…


「そのあとでお父さんやお母さんに思いっきり怒られちゃいました」
そういって、栞はぺろっと舌を出した。
子供が悪戯をして怒られているような仕草だった。
「でも私も薄情者ですね…一人で死んじゃおうなんて考えたりもしましたし…」
「でも、栞は今こうして生きているじゃないか。それでチャラになるさ」
「そう…そうですね」
そう、奇跡は起きたのだ。
治ることが奇跡とまで言われた病は今はほぼ完治の状態にある。
これから少しずつ体力も戻っていけば、もっといろんな事ができるのだ。
「そっか、それでさっきの曲を聴いていろいろ思い出していたんだな」
「はい。前にあの曲がさっき見た映画で使われているって知りました」
うーむ…つまり目的はあの曲だということだったのか。
ちょっとだけあの映画がかわいそうな気がした。
でも、一応楽しんだしいいか。
楽しみ方は人それぞれって言うしな。
…ってちょっと待てよ? 何か忘れてないか…?
「って、やっちまった…」
「えっ? どうしたんですか?」
「話に聞き入ってたら目的の店を通り過ぎちまった」
うわ…何やってんだよ俺…
「私もすっかり忘れちゃってました…」
二人してダメダメだな。
「仕方が無い、戻るか」
「そうですね。ちょっと急ぎましょう」
うーむ…確かに急いだほうがいいかもしれんな…
でも、もう少し二人だけでいたいな。
来年からは忙しくなるから、少しでも一緒の時間を大事にしたいなんて最近思う。
来た道をUターンして再び商店街のほうに足を向けた。
「あ…」
栞が何かに気づいたように空を見上げた。
一緒に空を見上げる。
「雪だ…」
高い空に広がる低い雲から無数の白いきらめきが降り注いでいた。
「………」
「………」
舞い落ちる雪に見惚れてしまう。
普段ならまた雪かなんて思ってしまうけど、今はもっと見ていたいと思う。
ホワイトクリスマスなんてありきたりかもしれないけど、いざ経験してみると嬉しいものだ。
「また…こうして雪を見ることができるんですね…」
つぶやいた言葉の意味の重さは俺も栞も痛すぎるほど理解している。
だから、今はこうして笑いあえるんだろう。
俺も栞も笑顔で向き合っていた。
「祐一さん、これからもよろしくお願いします」
「なんだか正月に言うようなセリフだな」
「わっ、そんな事言う人嫌いですっ」
「む、嫌われてしまったのか…」
わざとらしくしょげてみせる。
「………」
「………」
「ふふふっ、あはははっ」
いきなり栞が笑い出す。
「そういう風にいきなり笑われるとちょっとショックだな」
「ふふふっ、ごめんなさい…なんだか祐一さんが子供っぽいな〜なんて思っちゃって」
うわ…それってすげぇショック…
あいかわらず栞は笑ったままだ。
「でも…」
笑うのをやめて、少しはにかんだ笑顔になる。
「そんな所も私は大好きなんです」
「うっ…」
そんな顔で言うなんて卑怯だ…
もう抱きしめておもいっきり甘やかせたくなるぐらいかわいいじゃないかっ!
本能の赴くまま手が伸びて栞の背中に回りこむ。
このままぎゅっと抱きしめてしまおう。
それから先は…
ええい! 考えるより行動だ!
手に力を込めて栞を抱き寄せる。
「あっ…」
栞の顔と俺の顔がほぼゼロ距離になった。
「おっ…?」
それと同時に視界が傾いていく。
おもいっきり前のめりに倒れていく。
「うわっ!」
「わっ?」
どさっ
つーっ…やっちまった…
足元を見るとちょうど氷が張っていた。
被害状況は…よし、あまり被害は無いな。
「う〜冷たいです〜」
「………………………」
ああ、やってしまった…
抱きしめて前のめりに倒れたらそうなるよな…
栞は見事に雪に埋もれてしまっていた。
「う〜恨みますよ〜」
「すまんすまん、すぐ起こしてやるからな」
手を取って、そのまま顔を近づけていく。
「えっ…?」
栞の香りがする。
いつまでもそばにいたい。
もっと栞を感じたい…
長い時間がかかったような気もするが、実際はほんの数秒の間だった。
唇と唇が重なる。
栞の温もりが伝わってくる。
したあとだけど、つくづく周りに人がいなくて良かったなんて思った。
ぎゅっと雪を踏みしめる音が聞こえる。
栞の細い指が俺の手に絡んでくる。
俺に身を任せてくれるその健気さ、仕草にやられてしまう。
もう、どこがいいなんてレベルじゃない。
恋愛は中毒だなんていう言葉を思い出した。
本当その通りだと思う。
周りからみればどうしようもない姿だろうな…
「うわ…すごい…」
「………………………」
気がつけば二人の女の子が俺たちを見ていた。
気づかないうちに見られていたらしい。
でも今更止められない。
女の子の一人が近づいてくる。
あれ…どこかで会った事あるような気がする…
ウエーブのかかった長い髪、凛とした顔立ち。
後ろの女の子もそうだ。
ストレートの長い髪、おっとりとした印象…
…………………………


「相沢君、ずいぶんとお楽しみのようね」
恐怖の姉、美坂香里があらわれた!
「えっ、お姉ちゃんっ!?」
さすがの栞も慌てている。
「あたしは二人の関係に反対は無いわ」
「そういう事だって恋人同士なんだし…するのは当たり前よね」
おお、理解ある姉を持って幸せだ!
「でも、ね」
その場の空気が4〜5度ぐらい冷えた気がした。
「踏み越えてはいけない線があるって事…理解できるかしら?」
「………」
青い炎のような恐ろしい殺気が滲み出てきている。
それでも笑顔だった。
どうしたらこれだけの殺気を放って笑顔でいられるんだろうか。
俺は理解した。
確実に無事ではすまない事になる。
ならば先手必勝! タイミングを制したものが勝つのだ!
「おおなんてこった! もうこんな時間じゃないか。頼まれたものを買ってこなくては!」
「そ、そうですねっ。パーティーに遅れちゃったら大変です」
「せっかくみんなも揃っているんだしみんなで一緒に」
「相沢君、ちょっといいかしら?」
ぐわしと肩を掴まれた。
「あの…すごく力が込められてる気がするんですけど…」
「そりゃあそうよ。力入れなきゃ逃げちゃうじゃない?」
…………………………
仕方が無い、ここはもう腹をくくるか…
「…香里」
「何? 一応言い訳は聞いてあげるわ」
「ごめん! おりゃぁ!」
気合一閃、両手を上へと跳ね上げた。
計算したとおり、ひらひらとした布が巻き込まれてめくれ上がった。
「えっ…?」
「あっ…」
「………」
めくれあがった布の向こうには白い布があった。
正確に言うと「めくれあがったスカートの向こうには白いパンツがあった」だが。
一瞬の間時間が止まる。
香里の手から力が抜ける。
これなら…行ける…っ!
栞の手を掴む。
「よし、走るぞ」
「えっ、えっ?」
一歩踏み出す。
「っきゃぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
妙に女の子らしい叫び声と一緒にお決まりのスカートを押さえるポーズをとる香里。
こうなればこっちのものだ!
「栞! 逃げるぞ!」
「あ…はい!」
手を掴んだまま一目散に逃げ出した。
「ま、待ちなさい! なんて事してくれるのよっ!」
さっきとは打って変わって、殺気むき出しで追いかけてきた。
今は赤い炎をまとっているような雰囲気があった。
「今日だけは勘弁してくれっ」
「人の恋路を邪魔する者は馬に蹴られちゃいますよ〜」
「それとこれとは話は別よっ!」
「わわっ、みんな待ってよ〜」
追いかけられながら思った。
結局、ロマンティックなクリスマスにはまだまだ程遠いなって。
でもこういう騒がしいクリスマスもいいなって思う。
「メリークリスマス!」
「メリークリスマス!」
追いかけられて必死に逃げているのに二人とも笑ってた。
香里も名雪も笑っていた。
神様がくれた奇跡はこんなにも騒がしくて楽しいものなんだ。
「栞ー! 愛してるぞー!」
「わっ、大声で言わないでくださいっ」
今日はクリスマスイブ。
みんなで騒いで楽しもうじゃないか!



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